黒人奴隷クンタの20年間
=「世界商品」の生産と黒人奴隷制度= |
17世紀から18世紀にかけて、西欧諸国は大西洋で三角貿易を行い、海をまたいだ搾取の構図により、後の産業革命と資本ともなる莫大な利益を上げました。
その一方で、黒人同士が争うことにもなった奴隷貿易と植民地化により、アフリカ大陸各地の社会構造や経済は破壊され、今日まで続く貧困の原因ともなりました。
このサイトは、世界史におけるその地域のその時代を、西アフリカのある村に生まれ育った黒人少年の生涯の物語という形をとって、資料をもとに簡単に読み解くものです。 ※各章の図版は拡大します。 |
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第1章 襲撃 |
18世紀、西アフリカの内陸地帯にあったカイガラ村にクンタという16才の黒人少年が、父親のビンタ、母親のオモロ、兄弟姉妹とともに住んでいた。
ある秋の晴れた日、クンタはいつものように村から4kmはなれた畑へ家族とともに農作業に出かけた。ちょうど昼時、バオバブの大木の下で休んでいると、突然、槍や鉄砲などで武装した兵士数十人に取り囲まれた。
海岸地帯に住むカカ族の兵士たちだった。カカ族はイギリス商人から鉄砲などの武器を買い、その武器で内陸部の黒人を捕らえて奴隷としてイギリス商人に売り渡すことで利益を得て栄えていた部族だった。父や母は、クンタやその兄弟姉妹を守るために必死に抵抗したが、あっという間に殺害された。
クンタとその兄弟姉妹はカカ族に捕まり、海岸にある城砦に連行されることとなった。
海岸までの道のりは150km以上あり、6才以下の弟や妹は足手まといとなるため事前に殺された。カカ族は途中の村を焼き払いながらさらに多くの黒人を奴隷として捕らえ、4人ずつ首をロープでつなぎ、間にカカ族の兵士を配置した奴隷キャラバンを組んで、数週間かけてアフリカ大陸西端にあるゴレ島の「奴隷の家」に到達した。 ゴレ島はセネガルの首都ダカールの沖3kmにある東西300m、南北900mの小さい島で、西アフリカ各地から奴隷として連行された黒人奴隷の積み出し基地として使われたところである。「奴隷の家」は一階が奴隷の収容所であり、六畳ほどの部屋に15〜20人、全体では150〜200人が押し込められていた。また2階にはヨーロッパ奴隷商人の事務所があった。 数日後ここにある売台でクンタとその兄弟たちは他の奴隷たちとともに3〜4人ずつ束にして数えられ、裸にされると白人の奴隷商人に目や口を入念に調べられた。 健康状態が悪い奴隷は安く売られた。目に白斑があったり、歯が欠けていたりするとその分だけ値段は安くなった。また、「走る・飛ぶ・話す・手足を動かす」などのテストを施し、奴隷の値段を決めた。 このような過程を経て、クンタとその兄弟姉妹はイギリスの異なる奴隷商人に別々に売られることとなった。クンタは、奴隷船が来るまでこの「奴隷の家」に収容されることとなった。 |
↑ゴレ島:1978年に世界遺産に登録された。 |
↑「奴隷の家」:奴隷は積み出されるまでここに収容された。 |
第2章 奴隷船への「積み込み」 |
ゴレ島の「奴隷の家」に連れてこられてから3週間あまりがたったある夜明け、クンタたち黒人奴隷は4〜6人ずつ束にされてボートに乗せられ、沖合に停泊している奴隷船に連れて行かれた。奴隷の中には祖国を離れることを嘆いて、ボートから海に飛び込み自殺するものもいた。
奴隷のうめき声と叫び声に混じって鎖のカチャカチャなる音、ピシャッと鞭打つ音がいやに響いて聞こえた。
奴隷船につくと男の奴隷は船の前方へ導かれ、2人ずつ手枷と足枷をかけられた上、船倉に詰め込まれた。船倉はふつう約5フィート(150cm)の高さだったが、できるだけ奴隷を積みこむために、6フィート(180cm)幅の棚が両側の壁に取り付けられていた。 船倉の高さがもっと高ければ、さらにもう一段棚が作られていたという。要するに、空間を無駄にしないで、できるかぎり積荷を押しこもうとしたのである。女や子供は自由に放置されたが、夜になると、成人男子たちとは別の船倉に入れられた。 船はリヴァプール船籍のブルックス号というものだったが、奴隷の男子ひとりに許された空間は長さ6フィート、幅16インチ、高さは2フィート7インチ、女子は長さ5フィート10インチ、幅16インチであった。 つまり黒人奴隷に許された空間は一人当たり、長さ180cm、幅40cm、高さ80cmほどしかなかったということであるが、500人、600人と積み込むのがふつうであったという。 |
↑奴隷船 |
↑奴隷船の船倉断面図 |
←すし詰めにされた奴隷: 18世紀の奴隷船ブルックス号の船倉。奴隷船用の船倉は上甲板と下甲板の間の中甲板にあり、その高さは、120〜150cmだった。 |
第3章 奴隷船上の反乱 |
クンタたちを積んだ奴隷船、ブルックス号がゴレ島を出帆して数日後、アフリカ大陸が見えなくなった頃に、船上である事件が起きた。夜が明けるとすぐに黒人奴隷のうちの数人が甲板に飛び出して看守に襲いかかったのである。
彼らはアフリカ大陸が見えなくなると、すべてを奪われ未知の場所に連れて行かれると感じ、夜の間に反乱を計画し、鎖を解くのに成功して翌朝反乱を起こした。彼らは数人の白人看守を殺した。
するとすぐに全てのハッチ、出入り口が閉鎖され、甲板に銃が放たれ、首謀者が殺された。さらに反乱を起こした奴隷は八つ裂きにされ首を切り落とされ、クンタを含む他の奴隷への見せしめにされた。首を切り落とすのは、奴隷たちの「死んだら故郷へ帰ることができる」という考えを、「死んでも首は持って帰れない」という処置をもって取り除くためであった。
また、自殺を図ろうとして食べ物をかたくなに拒否する黒人奴隷には、赤々と燃える石炭をシャベルにのせて、それを唇が焼け焦げるぐらいの距離にまで近づけ、それ以上拒否すると無理にでも石炭を食べさせる、といって脅迫した。 これはほとんどの場合功を奏した。しかしそれでも効果がないときのことを考えて、奴隷船には「スペキュルム・オリス」と呼ばれる特別の口開け道具が備え付けられていた。これはコンパスに似たJ字型の脚でできた器具で、根元にはつまみネジがついていた。 脚を閉じて先端を奴隷の歯の間に差し込み、つまみネジを締めると脚が開いて、奴隷の口が無理にこじ開けられ、その口から食物を漏斗で注ぎ込む仕組みとなっていた。 |
第4章 大西洋の三角貿易 |
この頃、つまり18世紀の大西洋地域では、まずイギリスのリヴァプールやフランスのボルドーから積み出された火器や綿布、雑貨などがアフリカ西海岸で黒人奴隷と交換され、次にその黒人が南北アメリカやカリブ海域に運ばれ、そこで売却されて、最後に砂糖やコーヒー、綿花などを購入して母港に積み帰る、いわいる「三角貿易」が栄えていた。このアフリカ・アメリカ・ヨーロッパを巡る貿易航海には2ヶ月以上かかったが、成功すると元手の2倍、ときには7〜8倍の利益を得ることができる仕組みとなっており、商人たちにとって魅力的なゲームであった。
クンタたちを乗せた奴隷船はアフリカを離れて西インド諸島に向かって「中間航路」middle passage を進んでいた。プログレッシブ英和中辞典でmiddle passageを引くと、歴史的な用法であり、「中間航路:アフリカ西岸と西インド諸島とを結ぶ大西洋航路」とある。三角貿易の三辺のうち、この中間航路において「奴隷貿易」が行われたのである。 |
第5章 奴隷船での日常 |
奴隷船ブルックス号は中間航路をさらに西へ進んだ。奴隷は害虫がわくのを防ぐためにほとんど裸にされていて、最低2週間に1度は甲板に集められていっせいにシャワーを浴びせられた。また、縮れ毛に虱がわかないようにするために2週間に1度頭髪を刈られた。
天気がよい日には、食事と強制的な運動のために甲板に連れ出された。このときも奴隷は、海に飛び込んで自殺するのを防ぐために鎖に繋がれたままであった。食事は米・トウモロコシ・そら豆・キャッサバをスープにしたものが1日2回出された。また、ビタミンCの不足によって起こる壊血病を防ぐために、ビタミンはあるがカロリーは少ない果物が出されることもあった。
午後の食事が終わるとクンタたち奴隷はすぐに船倉に押し戻された。船倉には部屋ごとに便器としてのバケツが置かれていたが、2人ずつ繋がれているため奴隷同士でぶつかり合い、始終喧嘩が絶えなかった。また暴風雨が続いたときには、ハッチはもちろん通風孔まで閉じられたため船倉は完全な密室となり、熱病や赤痢にかかるものもいた。 しばしば船長が船倉に下りてきて奴隷を見回り、病気になった者を見つけると船員を呼び、「この奴隷は船外に捨てた方がいい」と指示を与えた。するとそれらの病気にかかった黒人は海に捨てられ、サメの餌食となった。このため、船の後をサメが追ってきていた。 |
第6章 奴隷市 |
ゴレ島を出帆して約2ヵ月後、奴隷船ブルックス号は西インド諸島のジャマイカ島、キングストンに到着した。島に接岸する前に奴隷船は検疫を受けた。検疫が終わると奴隷を高く売るために「商品」の手入れをした。
つまり、栄養価の高い食物や野菜・果物を与え、散髪をして髭を剃り、パーム油を体に塗り、体の細かな欠落を隠すために化粧を施したのである。これらの手入れは「白人のようになるための身支度」と呼ばれた。
その後、クンタを含む奴隷はせりにかけられた。奴隷市はポスターで宣伝され、大砲の合図とともに開始された。多くの白人プランターたちが船にやってきた。船員は奴隷を全て売り払うために、欠陥を持った者もまぜて奴隷を束にし、大勢の人に見えるように台の上に上がらせた。 プランターたちは、黒人の健康状態や体力を知るために、目・歯・皮膚を入念に調べ、様々な格好をさせ腕や脚を動かすように命じた。 奴隷の値段は船長とプランターとの間の交渉で、年齢・性別・健康状態・体力・外見によって決められた(35〜40才の奴隷は老人扱いされた)。プランターたちは、それぞれ条件に満足すると現金で代金を払った。なぜなら、現金払いにすると10〜15%の割引があったからである。 現金払いが無理な時は信用貨で払うことになったが、彼らはだいたい借金を抱えていた。クンタは数人の黒人奴隷とともに、大規模な砂糖プランテーションを経営しているパルパティーン大佐(Colonel Palpatine)に買い取られた。 買い取られた奴隷は「銀の焼きごて」で新しい主人のイニシャル(クンタの場合はC.P.)を背中に刻まれた。これはブランディングと呼ばれた。この手続きが済むと奴隷は一人ずつ「フラワー、ジャン、マリー」などの新しくて呼びやすい名前をつけられた。 クンタの新しい名前は「サンボ」Sambo となった。これはクンタが後になってから知ったことだが、「サンボ」という名は奴隷の名としてありふれたものであり、スペイン語で「ガニ股のサル」を意味する"zambo"と、英語のありふれた名前である"Sam"を組み合わせたものであった。 そして、前からいた別の奴隷に導かれて砂糖プランテーションまで連れて行かれた。 |
第7章 砂糖プランテーション |
奴隷たちは最初の一週間、栄養のある食物を与えられ、働かなくてよかった。これは旅の疲れを癒してその後しっかり働けるようにするためであった。
砂糖プランテーションは、サトウキビを栽培する大農場と、そのしぼり汁から砂糖、糖蜜、ラム酒を製造する工場の両方が一体となったものであり、農業よりむしろ工業に近いものがあった。中でも「工場」と呼べるのは、サトウキビのしぼり汁の濃縮・浄化・結晶化を行った製糖作業場であった。 大勢の奴隷が約300エーカーの農園で、統一的指揮・監督の下、畑作奴隷・工場奴隷・職人奴隷・家内奴隷などに機能的に配属され、組織的な激しい強制労働をさせられた。また畑作奴隷は、ひとりでも手を休める者がでないようにするために、作業能力別編成によるギャングシステム(集団チーム制)によって、一番きつい労働を行う第一ギャングから、より単純な労働を担い女性の多い第二ギャング、子供や回復期の病人から成る第三、第四ギャングまでのグループに分けられていた。 サンボ(クンタ)は第一ギャングに入れられ、サトウキビ畑に配属された。夜明け前に奴隷監督が鳴らす鐘またはホラ貝の合図で目を覚ますと作業が始まり、午前9時ごろに約30分の朝食時間が与えられた。朝食には、ヤム芋、サト芋、バナナなどの主食と、オクラなどの野菜を塩またはとうがらしで味つけしたものが出された。 正午になると自由時間が2時間与えられたが、これは休憩のためではなく、自分たちの昼食を準備するためにあった。午後2時ちょうどになると、奴隷監督は奴隷たちを畑に呼び戻し、また夜7時ごろまで働かせた。収穫期には、作業は深夜にまで及んだ。 サトウキビの植え付けシーズンになると、水はけのよい斜面を利用して作られた畑で奴隷たちが横一列に並び、鍬でサトウキビの苗を植え付けるための正方形の畝床を作り、別の奴隷がそこに苗を置き、さらに別の奴隷が土をかぶせた。 また、サトウキビの成長に合わせて肥料まき、除草、ねずみの駆除などを行った。サトウキビの収穫期になると、畑作奴隷の全ギャングが一斉に畑に入り、人の背丈をはるかに越えるサトウキビを手斧(マチェテ)で伐採し、下級のギャングがそれを集めて切りそろえて束ね、製糖工場に運んでいった。 |
第8章 製糖工場 |
収穫されて製糖工場に運び込まれたサトウキビは、すぐに処理しないと砂糖の品質に影響が出るのため、真っ先に三本垂直ローラー式の風車型圧搾機で汁をしぼり出された。このときに、過労と寝不足などのために不注意になっているとサトウキビとともに腕が圧搾機に巻き込まれてしまうことがあったが、全体の作業に支障をきたすため、そばに置いてある斧を使い、巻き込まれた腕をすぐに切り落として作業は続行された。このため砂糖プランテーションでは、片腕がない奴隷などもよく見かけられた。
その後、圧搾機から出てきたサトウキビのしぼり汁は樋をつたって一時的に溜め桶に集められ、そこでゴミをすくい取った後、ボイラーに移されて、灰汁を抜かれ、不純物を取り除かれた。ここのボイラーの主な燃料は、圧搾されたサトウキビのかすであった。もうひとつのボイラーにかけた後濾過して泡を取り除き、冷却皿に送られると砂糖として結晶した。この砂糖は樽詰めにされてヨーロッパに向けて出荷された。 サトウキビのしぼり汁からは糖蜜とラム酒もつくられた。純化されたしぼり汁を冷却した後、穴の開いた樽で砂糖の外皮の部分を濾過すると糖蜜ができ、その糖蜜からラム酒が造られた。蒸留所の内部では、プランターがアルコール度を検査することができるように、奴隷が樽に穴を開けていた。 |
第9章 プランテーションでの生活 |
奴隷たちは奴隷菜園という、奴隷だけのために利用できる畑をあてがわれていた。この畑で奴隷たちは、休憩時間や夜など仕事以外の時間を使って、キャッサバ・ヤム芋・バナナ・野菜・果物などを自由に栽培した。これらの食べ物はプランターがアメリカなどから輸入して与える、トウモロコシや塩漬け鰊(にしん)などの食物の栄養面での不足を補った。
またジャマイカの法律では、主人の許可証を携帯すれば、奴隷が日曜市などに奴隷菜園の余剰作物や鶏売りに出かけることを認めていたため、日曜日の市場は意外とにぎやかだった。 しかしそれとは逆に普段の奴隷の管理は厳しかった。プランターたちは、奴隷が反乱を起こすのではないかという不安に常に悩まされていたので、反乱を起こそうとする奴隷を捕らえては厳しく処罰した。奴隷の管理責任者が畑を見回っては、奴隷の生産高に注意を払い、定期的に奴隷の小屋を検査した。これは武器や盗品を隠していないかをチェックするためであった。また、馬に乗り、武装して警備にあたる特別パトロール隊が志願者の中から組織され、見回りや逃走した奴隷の追跡を行った。 逃亡者の逮捕には賞金がかけられることもあった。そして夜8時以降は外を出歩くことを許されなかった。 |
第10章 追放 |
サンボ(クンタ)がいたところはとても大規模な農園で黒人奴隷も大勢いたので、主人であるパルパティーン大佐は、奴隷に会っても見分けがつかなかった。また奴隷も誰が主人か分かっていなかった。
ある日、サンボ(クンタ)は馬に乗った白人に、奴隷に対するよくあるやり方で話しかけられた。 「やあ、ボーイ、お前はどこの奴隷かね。」 「パルパティーン大佐です。」 「大佐はお前にやさしくしてくれるかね。」 「いえ、とんでもねぇです、旦那さま。」 「で、仕事はきついかね。」 「そうですとも、旦那さま。」 「じゃ、ろくに食べ物もくれないのかね。」 「いやあ、お粗末ながら、まあまあってとこです、旦那さま。」 するとその白人はサンボ(クンタ)に名前と、どこの農場で働いているのかを聞くと、そのまま馬を走らせて行ってしまった。サンボ(クンタ)は自分が自らの主人と話しをしていたなどとは夢にも思っていなかった。 何事もなかったかのように2週間ほどがたったある日、サンボ(クンタ)は何の前触れもなく奴隷監督から、 「お前は主人、つまりパルパティーン大佐の悪口を言ったのでアメリカ、ジョージア州の商人に売られることになった。」 と言い渡され、すぐさま手枷と鎖をかけられ港に連れて行かれた。 これは例えば、子供の奴隷を買ってそれが成長してから売ると値段が倍ほどになることや、年代が進むにつれ奴隷の需要が増し、奴隷の値段が上がっていったことにともなってプランターの利益となるため、罰としてもよくある手法だった。 |
第11章 綿花プランテーション |
ジョージア州に着くと新しいプランターのもとに連れて行かれた。プランターの名はガンレイ総督(Viceroy Gunray)であった。前回と同じように新しいプランターのイニシャル(V.G.)の焼印を背中に押された。カリブ海とは違いアメリカ大陸では、砂糖ではなく綿花を栽培するプランテーションが栄えていた。
綿花は古代エジプトの初期から知られていたが、広く普及するようになったのは18世紀末のことであった。これは紡績機が初めて発明されたためである。綿繊維は木綿の木の種子をおおっているやわらかい綿毛から取れる。木綿の木は土地を消耗させ、多くの労働力を必要とするため奴隷制度なくしての栽培は成り立たなかった。 木綿の木は1.5mほどの潅木で、クルミのような大きな皮におおわれた果実は、白い繊維に包まれていて、30ぐらいの小さな種子を含んでいる。これは成熟すると皮が破れて、中の繊維が乾燥して反る。どの綿花も同時に成熟するわけではないので、奴隷たちは常に見回って適宜摘まなければならなかった。 綿花の収穫は、8月の下旬に始められた。サンボ(クンタ)たちには紐のついた袋が配られた。この紐を首に回すと袋の底は地面につき、その口がちょうど胸のあたりにくるような仕組みになっていた。また、袋がいっぱいになった時のために大きなかごも与えられた。奴隷1人がまともに働くと1日で約100sを収穫することができた。 そして普段の収穫量のノルマを達成できない奴隷は罰せられた。また、奴隷たちは朝日が昇る頃には畑に出ていなければならず、正午に冷肉を与えられると、明るいうちは絶え間なく働き、満月の時は真夜中まで働かされることもあった。 綿花の栽培には多くの労働力が必要だったこともあって、綿花の生産量が増えるにしたがってアメリカ南部で強制労働につく奴隷の数も増えた。 |
第12章 その後 |
サンボ(クンタ)がアフリカのカイガラ村で農作業中に海岸地方のカカ族に捕らえられてから、ジャマイカ島にあるパルパティーン大佐の砂糖プランテーションで働き、後に追放され、ジョージア州にあるガンレイ総督の綿花プランテーションで働いているうちに20年余りがたち、サンボ(クンタ)は36才になろうとしていた。この歳まで過酷な労働を強いられてきたため、体があまり丈夫ではなくなってきていた。
奴隷が満足に働けなくなると、プランターは彼らを自分の家で召使い奉公人として使うようにしていた。また召使い奉公奴隷を多く持つことはプランターにとって豊かさの証でもあり、外部の人間への自慢の種にもなった。男は、料理人・御者・大工・鍛冶・警備、女は洗濯・掃除・料理・リンネル係・子守り・助産などを行った。 こうしてサンボ(クンタ)はガンレイ総督の家で召使い奉公奴隷として働くこととなった。このため、他の奴隷とは別に総督の家の近くに住み、家族の一部を成した。プランテーションで生まれた奴隷の子供の面倒は、黒人の乳母や年長の子供たちが見た。白人と黒人の子供は一緒に遊び、黒人の乳母が白人の召使いを監視し、黒人の下女が女主人を手助けし、黒人の下男が多忙な白人主人を助けた。 しかし、一緒に生活することによって、白人は警戒心、黒人は憎悪の感情を持つこともあり、召使い奉公奴隷は再び売られることがよくあった。また他のプランターに仕えている召使い奉公奴隷とは結婚できなかった。 サンボ(クンタ)は幸運にもその後再び売られることなく召使い奉公奴隷としてガンレイ総督に仕え、49才まで生きた。 |
・文献
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